桜ハート【後編】

川沿いの桜並木と二人202304

3年ぶりに春の休日に桜を見に来た。
目黒川の川沿いに競うように咲き誇るソメイヨシノ。
美しいと思う。
ただ、僕の中では、美しさよりも切なさの方が勝(まさ)ってしまう。
僕の心の時計は、3年前で止まったままなのだ。
高校時代、僕は一人の女性と付き合った。
一学年下のテニス部の女の子だった。
細身で髪が長く、男なら誰が見ても好きになって当たり前な女性だった。
夢のような日々と言ったら言い過ぎかもしれない。
でも、確実に彼女のおかげで、僕の高校生活はバラ色だった。
僕が高校を卒業し、大学に進学してからも、高校生の彼女と付き合いは続いた。
しかし、高校を卒業した彼女は、地方の大学に進学を決め、僕のもとから去って行った。
ぽっかりと心に穴が開いてしまったが、医者になる夢のため、僕はひたすら勉強した。
それから3年後、僕は医大を卒業し大学病院に医者として勤務し始めた。
そんなある春の休日、ふらっと目黒川に桜を見に行った。
そこで、僕は彼女と再会した。
東京で就職が決まり、彼女は戻ってきたのだ。
彼女の美しさは変わっていなかった。
いや、年齢というクロスで磨かれて、さらに美しくなっていた。
恋愛ドラマのワンシーンのような再会を果たした僕らは、お互いの気持ちを確認した。
再会した翌月には新しくアパートを借りて、二人で住み始めた。
場所は、高校時代二人で桜を見に行った目黒川近くと最初から決めていた。
お互いに忙しかったが、休日は二人の時間を満喫した。
春には時間さえあれば、二人で目黒川沿いの桜並木を歩いた。
「結婚しようか」
そんな言葉が二人の口から同時にこぼれ出て、笑いあった。
そんな矢先の出来事だった。

幸せには期限があるのだろうか。
まるで、「今日で期限切れです」とでも言われたように、二人の幸せは終わった。
二人で結婚を誓った数日後、彼女は車にはねられて亡くなった。
車道に飛び出した子犬を守ろうと、自分も飛び出したところをはねられたそうだ。
子犬は飼い主のいない野良犬で、どうやら彼女は拾ってうちで育てようと思ったらしい。
彼女は、また僕のもとから去って行った。
しかも、今度は永遠に・・・。
彼女は生前、僕にも、彼女の両親にも臓器提供の意思表示をしていた。
「死んだときにも誰かのお役に立ちたい」
そんなことを願う女性だったのだ。
心臓など損傷のない臓器は、ドナーを待つ患者さんに移植されたそうだ。
僕の心境は複雑だった。
彼女の気持ちは理解しているものの、どうしても「持って行かれた」という気持ちになってしまった。
医者として情けないけれど、それが正直な気持ちだった。
それから3年。
目黒川沿いのアパートから引っ越し、桜を見に行くこともなかった。
僕にとって桜は、とくに目黒川沿いの桜は、辛い気持ちと直接結びついている。
もう二度と足を運んでまで見に行くことはないだろう、と思っていた。
それなのに、どうしてあの春の休日、僕はそこへ行ったのだろう。
行ってみると、やはり以前の記憶が蘇り、辛い気持ちになった。
思い出したくない喪失感が、心の中をいっぱいにした。
もう帰ろうと思い、人ごみの中を急いでいると、桜橋が目に入った。
そして、橋の上にたたずむ一人の女性に目を奪われた。
彼女だ。
いや、違う。
雰囲気は似ているけれど、彼女ではない。
当たり前だ。
彼女はもうこの世の人ではないのだ。
でも、僕はその女性から目を離せなくなった。
気がつくと、彼女のそばまで行き、彼女を見つめながら立ちすくんでいた。
彼女はうるんだ瞳で悲しそうに橋の上から桜を眺めている。
亡くなった彼女に姉妹がいたら、こんな感じだろうかと思わせるような雰囲気だ。
気がつくと、僕は彼女に声をかけていた。
無我夢中でお茶に誘うと、少しためらったが、彼女は悲しい表情のまま応じてくれた。
そして、
それから3ヶ月後、僕はその女性と結婚した。
3年前、亡くなった彼女が事故にあった日に心臓移植を受けた女性と。

【了】

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